徐々に死に至る社会の片隅に

ロスジェネ、アラフォー、多分、余命10年くらい

平成の終わりに

2019年4月30日。平成の終わりの日。

 

明治、大正、昭和はそれぞれに時代のカラーがあった。

 

しかし、平成にはない。

 

何もない、空虚な時代。

 

強いていうなら、黒に近い、灰色のような時代。

 

こゝろ』の「先生」は、明治という時代の精神に準じたが、そんなのものは平成にはない。

 

空虚を30年も生きたアラフォーの私。

 

余命、多分、10年くらい。

 

 

 

 

今年も忘年会に行かない

職場の忘年会に出なくなって今年で5年になる。

 

以前いた部署があまりに多忙で、忘年会に行くくらいなら少しでも休みたいと思って出席をキャンセルして以来、今の部署に移っても出席していない。

 

出席しても私には何のメリットもないからだ。

 

職場での愚痴を言い合って何になろうか。言っただけで何1つ改善されないというのに。

 

他人の恋話なんぞに微塵も興味はない。ましてやこちらに話を振られても「ずっと、何もないです」と言うだけだ。「いやいや、またまた〜、少しは何かあるでしょ?」「いえ、ずっと、何もないです」そして気まずい沈黙が訪れるだけだ。無いなら無いなりに、気の利いた返事もあろうかとも思う。しかし、そんな返事をするのも面倒になった。

 

タバコが臭い。このご時世に、人に紫煙を吐きかけるそのデリカシーの無いオヤジのメンタリティーが不愉快極まりない。

 

チェーンの居酒屋で大して酒もつまみもうまく無いというのに、高い。最低でも5000円は取られる。

 

あんなものに5000円(最低でも)の価値はない。

 

5000円もあったら、本を買うし、安い席ならコンサートにも行ける。

 

家で本でも読みながら、音楽でも聴きながら、チェーンの居酒屋においていない良い酒を飲んでくつろぐ方が良い。

 

なのでこちらはこちらで、そちらはそちらで勝手にするのがお互いの幸福だと思う。(と、いうことをなかなか周りは理解しないでしょうが)

 

当然、新年会もその他諸々職場の飲み会には行きません。しかし、職場全体の宴会は行かないと次の日に社長室に呼ばれ、「やめろ」と言われるので行きますが。(こんな社風なので私はブラック企業だと思うですが、感じ方は人それぞれのようで)

 

 

多分、余命、10年くらい

近頃、自分の余命はあと10年くらいだろうと思うようになった。

 

毎9時ぐらいに帰宅してコンビニ弁当かスーパーの50%引きの弁当・惣菜を食べる日々。健康にいいはずがない。

 

健康診断のいろんな項目の数値も、とても悪いというわけではないがあまり良くなくなってきた。

 

ニュースで耳にするブラック企業ほどではないが、黒に近い灰色な職場環境。

 

以前いた部署では多忙で、月に1日ほどしか休みがない状態が3年続き、2年目からは明らかに心身に不調を来した。今は配置転換されて月に4日は休めるが、いつまた多忙な部署に回されるかはわからない。

 

なんかもう、多分、10年後くらいに死ぬのだろうなと漠然と予感する。

 

だからと言って残念に思うこともない。今死んでもまあ、別に構わない。自殺するのも億劫で何となく生きている。嫌々ながら、なぜか漫然と働いてもいる。

 

何もかもが、漠然と、漫然と、だらだらと、しかし疑いようもなく死に近づいている。私も、社会も。

 

夢と希望は、昔にはあったのだろうか。あったとしても、もう、とうの昔に私は忘れてしまったのだ。

平成が終わることへの感慨はない

ある政治家は「ますます昭和は遠くになりにけり、だ」というようなことを言っていたが、平成の世が終わろうと私には何の感慨もない。

 

空虚な30年だった。

 

何もなかった。

 

いや、何もなかったのは、私だけなのかもしれない。

 

いや、きっといるだろう。空虚な30年間を送った人たちが。そういう人たちの声は、目につかないし、耳に届かないだけのことだ。

 

私はこの徐々に死に至る社会の片隅で、そんな言葉を書き綴って行こうと思う。

 

徐々に死に至るのは、私であり、この日本社会でもある。